大変ご無沙汰をしてしまっておりました。
酒井ほずみです。
東日本大震災から4年目を迎えました。
変わらず心を向け続けてくださっているみなさまに心から感謝いたします。
ありがとうございます。
相馬・南相馬にも春が訪れつつありますが、今夜はとても強い風が吹き、気温も低く
ストーブに火を入れています。
元祖・かえる新聞を発行していた、
いわき市の團野和美さんがお亡くなりになりました。
44才。
早すぎます。とても悲しく、残念です。
そうま・かえる新聞は、モリタさんがいわき市でお仕事をしたときに見つけた
「かえる新聞」を持ち帰って見せてくれたことから始まりました。
「おまえらもこんなの作ったらどお????」そう言って。
当時、相馬市よりも空間線量が低く、安心かのように思われていたいわき市においても
子どもを抱えたお母さんたちの不安や疑問は尽きなかった。
子どもたちを守ろうとする強く優しい思いが溢れた紙面に勇気をもらって、
戸惑いながらも、私もこんな新聞を作れたら、と思いました。
福島第一原発は、相馬といわきの間にあります。
同じ県内とはいえ面積が広い福島県。
震災前も片道2時間かかる距離ではありましたが、事故後は大きく迂回するルートでしか
アクセスできず、1時間ほど遠回りするしかありません。
それでも、その新聞を作り始めた團野さんに会いに行くことに決めました。
あの年の11月でした。
どうしても直接お会いして話してみたかった。
同じ思いでいることを聞いてもらいたかったし、彼女の思いを聞きたかった。
その日、事務所の引越し作業をしていて忙しそうな團野さんでしたが、
近くのお店で3時間も相手をしてくれました。
女手一つで5人のお子さんを育ててらっしゃる團野さん。
その強さ、たくましさが意外なほど、華やかで美しい方でした。
まちを元気に変える、いつかこのまちに帰る、さまざまな願いのこもった
「かえる」のコンセプトのこと、
被害からの復活や放射能の影響そのものももちろんだけど
意識や意見の違いから、近しい人同士が分断、対立してしまう現状が苦しいこと、
できることの少なさがもどかしいこと、
発信をすることの難しさ。たくさん話をしました。
新聞を出すことそのものではなく、何を伝えるのかを大切に。
そう教えてくれました。
出来上がったそうま・かえる新聞を、準備号からずっとお送りしていて
無事創刊できたことをとても喜んでくれました。
いつかかえる集会をやりましょうね、と企んでもいました。
でも、何度かメールや電話でやりとりをさせてもらっただけで、また会いにいく約束は果たせませんでした。
いわきの子どもを守るネットワーク、子ども未来NPOセンター、みんなでつくる放射能測定室、と
いくつもの活動を続けておられた團野さん。
かえる新聞の発行は途絶えてしまっていたようでしたが、
大きな病気を患っておられたことはを人づてに聞いていました。
一番上の娘さん以外には病名を知らせず、生活や活動のため、そして治療費のため、
多忙にお仕事を続けていたそうです。
元祖かえる新聞がなければ、そうま・かえる新聞は生まれませんでした。
あの日お会いできた團野さんがとてもとても素敵な女性だったことがうれしかった。
せめてもう一度会ってお礼を言いたかった。
悔やんでも悔やみきれません。
つらい病気を抱えながら、子どもたちの未来を守り続ける活動をやめなかった、
お子さんたちにその背中を見せ続けた團野和美さんに心からの敬意を。
私たちも、子どもたちに恥ずかしくない生き方をしたい。
未来をいっしょに生きられることは、当たり前じゃないこと、また肝に銘じます。
和美さん。本当にお疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
酒井ほずみ